にっき

出勤途中に信号待ちをしていると、「ひゃっ」と小さな悲鳴が聞こえた。

声のしたほうを向くと、年配の女性が若い女性の肩におずおずと手を伸ばしているところだった。どちらの女性も不安げな表情を浮かべており、何かしら問題が起こっていることはすぐにわかった。
年配の女性が手を伸ばす、若い女性の肩をよく見て、自分も「ひゃっ」と思った。

大きめのミンミンゼミが、若い女性の肩にとまっていた。

年配の女性は眉間にしわを寄せながら、そーっと肩に手を伸ばす。どうやらセミを触るのは苦手なようで、チャレンジしては「あああ」と手を引っ込めてしまう。怯えた声を漏らす。
年配の女性に教えられるまでセミの存在に気づいていなかった様子の若い女性は、なぜか半笑いだ。しかしとりたてて怯えた様子もなく、年配の女性の救助をじっと待っている。セミもまた、とりたてて騒いだり動いたりすることなく、六本の足で若い女性の肩にしがみついている。
その救助を待ちながらも、何度か手を伸ばして引っ込めるという行動を繰り返す年配の女性に業を煮やしたようだ。若い女性は、すぐ傍で見守っていた自分に視線を合わせてきた。
小学生の時分ならいざしらず、30代半ばを迎えた自分にとって虫は脅威だ。およそ同じ世界の生き物とは言い難いおぞましい醜悪なデティール、想像を超えた素早い動き、どれをとっても好きになれる要素などない。あるいは、なくなった。
自分より小さな動くもの、というだけで無邪気に手づかみ征服欲を得るようなフェイズはとうの昔に過ぎ去った。大人になるにつれて得られた知識で、自分より小さな存在であっても恐ろしい事象はいくらでもあることを知った。つまり、虫は、怖い。

それでも、目の前で無言のまま助けを求めるふたりの女性の視線は自分の心に響いた。ここまであからさまに頼られてしまっては断れない。
意を決し、セミを睨みつける。恐怖をはねのけ、若い女性に一歩近づく。
今こいつが飛び去るようなことがあれば、高い確率で自分の顔面にヒットするであろうとわかっても、なお足を踏み出し、手を伸ばした。
そうだ、30代半ばを迎えたのだ。小学生の時分とは違う。征服欲から小さな命を弄んで楽しむ自分だけのフェイズもまた、とうの昔に終わっているのだ。この世界は、自分以外の世界とつながっている。誰かの世界に干渉することもできる。誰かを傷つけることも、救うこともできるということを知っている。
そして、困っている人を助ける力も知識も、今の自分にはある。
加えて、困っている人を助けたい、と思う。

思いのまま、女性の肩に、セミに、震える手を伸ばす。――が、やはり恐ろしい。掴めない。掴めはしない。はねのけたはずの恐怖が再び勢力を取り戻し襲ってくる。

しかし、負けられない。負けるわけにはいかない。

掴もうとした手を振り上げ、女性の肩に触れるか触れないかのぎりぎり、手刀で水平に空を切った。手の側面のみをうまくセミに当て、女性の肩から薙ぎ払う。みりっといやに乾いた質感が一瞬、手から脳へ伝わる間に、セミは女性の肩から吹っ飛んだ。
渾身の一撃をその身に受けたセミは、じじ、と不平そうな鳴き声を上げながら数メートル先まで放物線を描き、接地する前に羽を広げて上昇した。横断歩道の向こう側へ、蛇行しながら飛び去っていく。

戦いは終わった。セミに張り付かれていた若い女性も、助け損なった年配の女性も、心底ほっとした表情で微笑み、ありがとうございます、と自分に向かって何度も頭を下げてくる。戦いの緊張感にとらわれたままでうまく反応ができず、曖昧な笑みを返した。

信号が変わり、青になった。


JUGEMテーマ:鳴く虫



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