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ネットフリックスにっき

『The OA パート供戮魄豕い亡兢泙靴燭里粘響曚鮟劼戮襦

パート気魎僂討らほんの2か月ほどで新作を観られることになるとは思わなかった。一作目の配信は2年前らしいので、とても良いタイミングに本作を発見できてよかった。

ほんの2か月ではあるが、続編が制作中であることを知ってからは非常に待ち遠しかった。知的好奇心のようなものがビリビリと刺激される前作のSF的な心地良さをもう一度味わいたいと思っていた。

考察記事のようなものもいくらか読んだものの、日本ではそこまでウケていないのか、記事の絶対数は他の海外ドラマ作品に比べて非常に少なく、そういった意味でもそわそわした。

高速バスの中で、iPhone8にて観賞した。

序盤、初登場の黒人私立探偵・カリムが、アジア人の老婆から失踪した孫娘の捜索を依頼されるところからスタート。スマートフォンのゲームアプリや各超現実(AR)など、前作にはなかったテクノロジー関連の描写が多い。何かトビラ?に関連するゲームであるらしいことが示される。

そして満を持して登場するOA。しかし様子がおかしい。前回のどの時点からのスタートなのか全くわからないまま、あれよあれよと発作のようなものが起きて気絶。病院で目を覚ましたOA、担当医が意識の確認のため、大統領の名を問う。「バラク・オバマ」と劇中2016年当時の大統領の名前を答えるOAだが、担当医は怪訝そうに「誰?」と聞き返す。

そこでようやく、始まった、と感じた。とはいえ、前作に比べると展開が早く、あまり気をもませることなくここまで来たな、という印象だった。

この世界における自宅に戻ったOA。豪華なマンションが自宅であることを知り顔をほころばせるOAが素朴でかわいらしい。部屋に置かれた写真などから「OAが幼少期に交通事故に合わず、臨死体験もせず、したがって盲目ではない世界」であることが示される。並行世界の展開。なんと、ここでシュタインズ・ゲートか、と思わずニヤリとしてしまった。
前作で銃弾を受け死亡したOAがしきりに言っていた「ジャンプ」とは、死んだのちに、あらゆる可能性によって多層構造になっている世界の中の「自分」に憑依するということだったと明かされていく。シュタゲじゃねえかと一瞬思ったが、タイムリープをするのではなく、あくまで同時刻の「別人」である自分に意識を乗り移らせることだと理解した。

自分の置かれた状況を把握したいOAは病院内で暴れてしまい、精神病院のような施設である「トレジャーアイランド」に収容されることになる。そこで、レイチェルやレナータ、スコット、そしてホーマーに再会を果たすOA。スコットから、OAがハップから追放された後、ハップを含む5人で「動作」を行い、この世界に「ジャンプ」したと告げられる。しかし、ホーマーは施設に勤める医者であり、この世界の記憶しかない様子。レナータは過去の記憶は作り物であると洗脳されており、レイチェルは記憶があるものの失語症になっていた。そしてさらに最悪の事態として、この施設の管理者が、宿敵・ハップその人であったことが明かされて、「うわー」となった。また監禁・そこからの脱出、という展開がサスペンス要素のメインになってしまうのか、とわずかな不安がよぎる。

私立探偵カリムが独自の調査で、依頼された少女の失踪がトレジャーアイランドに関係していることを突き止める。

OAとカリムの二軸のほか、OAが死亡した前回の世界に残ったままのスティーヴを始めとした5人もしっかり描かれる。それぞれに喪失感を抱えている5人は、バックが見たという鏡に映るレイチェルをきっかけに、アンジーを加えた6人で真相解明の旅に出る。

個人的には、彼らの地に足についたロードムービー風のエピソードが危ういながらも非常に心地よく、サスペンスフルに展開するOAとカリムのエピソードとは質感ごと差別化され、作品内でバランスをとっていると感じた。

前作同様、OAの監禁・脱出の展開が肝になっていくのかというのは、中盤でカリムとともにトレジャーアイランドからわりとあっさり脱出してしまうことで、杞憂であったと胸をなでおろすことができた。どうやらこの世界でのハップは臨死体験とは別の目的である「望んだ世界にジャンプするための地図作り」を行っているのではないかということが示される。

そういったギミックは、スピリチュアルに全振りだった前作よりもSFっぽさのほうが際立っており、そのためどのように視聴体力を持ち続ければよいのかラストまで全くわからないということがなかった。ひとつひとつある程度は納得しながら次の謎を追うことができた。

途中で、カリムが探しているミッシェルという少女が、この世界におけるバックであることが明かされ、ああっとなった。第一話で失踪した少女の写真も出てくるのに、それがバックだとは気付けなかった。普段のバックは短髪でしかめっ面が多く、それが長い黒髪に笑顔、というだけで雰囲気が全く異なっていたこともあり、完全に見落としていた。

中盤、手がかりを求め、謎の会員制クラブに潜入するOAとカリム。そこで、今回の賛否両論ポイントのひとつであろうオールドナイトが登場する。OAを通じて聴衆に何らかの告示?を与える、巨大なタコだ。日本人俳優が声をあてているらしい。そんな素振りも全くないところから、いきなりのCGクリーチャーの登場に、さすがに「何これ」となった。まさに、何を観せられているのかわからない、という状態に陥ってしまった。前回の唐突な前衛舞踊である「動作」など、かわいいものだった。やってくれるなあ、とさすがに顔がほころんでしまった。

そのあたりから、ハップに接触する謎のフランス人女性が。「ジャンプ」の秘密を匂わせる彼女に翻弄されるハップ。OAや彼のような存在を「旅行者」と語る彼女は、ハップに拉致されそうになる直前に、手のひらほどの大きさの立方体を取り出す。あっけにとられるハップをよそに、立方体が起動。なんと、例の「動作」を機械的に行う「転送マシン」だった。連続で超展開を見せつけられ、さすがに少し不安になる。

やがて、OA、カリム、例の5人ご一行が、クライマックスに世界を隔てて合流する。記憶を取り戻したホーマーも加わり、さあどう決着をつけるのか、というところで、最後の超展開。

再び「ジャンプ」したOAとハップ。巨大なセットの中でスタント中に事故が起こったらしい。横たわっているOAに駆け寄るハップ。しかし、OAは「ブリット」と呼ばれ、演じているブリット・マーリングだということが示される。駆け付けた救急車に同乗するハップ、乗り込む際に自分も「ジェイソン」と、演者自身の名を名乗る。もはや何がどうなっているのか、なぜここでメタ展開なのか、と怒涛の流れ、謎が謎を呼ぶ中、ついに追いついたスティーブ。走る救急車に飛び乗って、驚くハップに向かって「よう、ハップ」。パート興了。
たいへん面白かったし、観たかったものは観られた。視聴者の経験則を利用してミスリードを繰り返し、挙句の果てにぶん投げてくる本作は、賛否両論があって当然だろう。ただ、こういった作品でしっかりエンターテインメントであるものはなかなか少ないとも思うので、引き続き次作を待ちたいと思う。

ゲームにっき

PS4ダウンロードソフト『Firewatch(ファイアウォッチ)』をプレイしたので感想を述べる。ネタバレには一切配慮しない。

『ゴッド・オブ・ウォー』以降、再びゲーム機としての本分を失った自分のPS4。起死回生の一作になるのではと期待していた『ANTHEM』が軒並み低評価でなかなか食指が動かず、また実弟にプレゼントされた『スパイダーマン』も敵が硬いため起動するのが億劫になっていた。これではいけないとPSストアを回遊するうち行き当たったのが本作だった。

海外での評価が高く、またサムネイル画像にリクガメの姿を発見したのでプレイすることにした。

広大な森林が舞台の一人称視点アドベンチャーゲーム。ワイオミング州の森林で火災を早期発見するための監視員となった主人公・ヘンリー。他の監視塔にいる女上司のデリラと無線で交信しつつ日々を過ごしていく。

ヘンリーは若年性アルツハイマーを患っている妻・ジュリアの介護に心身ともに疲れ果てていることが、冒頭のテキストパートで語られる。実家のあるオーストラリアに帰省して治療を続けることになったジュリア、彼女に背を向けるように孤独な職に就いたヘンリーという、物悲しく切ない関係性。なるほど、森での生活を経て彼が妻への愛を取り戻す話なのかなと予想できた。

かくして一人だけのサバイバル生活が始まった――かに思えたが、ベテラン女性監視員のデリラが無線で交信してくる。声だけの彼女と軽口を叩き合いつつ、パトロールを始めるヘンリー。湖で花火をして遊ぶティーンエイジャーを注意する、といったおつかいミッションから、やがてこの森で起こっている怪現象の真相究明へとシフトしてゆく。

「会話」で進行する洋ゲーとしてまず思い当たった類似作品が、iOSアプリの『LIFE LINE』だ。宇宙事故にあったタイラーと自分のスマートフォンが偶然リンクしたという設定から始まり、メッセージをやりとりすることによって彼を脱出へと導いてゆくという、スマホ版ゲームブックとも言うべき作品。短いながらリアルタイムに彼と時間を過ごしているような感覚が得られ、稀有な体験だった。

『Firewatch』はスマホゲームと違い、さすがによりビデオゲーム然としているものの、根底にあるマインドには近いものがあるように感じた。そしてそれは、自分が最近のゲームに求めてやまないものだった。

両方の作品も、存在しない「誰か」の質感を、ゲームを通じていかに息づかせるか、というところが肝になっている。孤独なゲーム内で話しかけてくれるデリラ。彼女とのやりとりについて、嬉しく感じるときとめんどくさいと感じるとき、いずれの感情も自分が得られた瞬間に、なるほど名作と呼ぶプレイヤーが多いのは、こういうことかと気付くことができた。

すなわち、それはゲームデザインであり、コンセプトだ。一言でまとめられるような、そのゲームだけが持っている特徴であり個性だ。遊んでいるだけで「察する」ことができる面白さだ。その、すとんと合点がいく部分がゲームにしっかり落とし込んであり、のめり込める作品になっていた。ゲームの中だけで成立するリアリティをどう感じさせるのか、きちんと考え抜かれている。佳作。

しかし荒い部分は多く、本当は入ることのできないポリゴンの隙間に挟まってゲームを中断せざるを得ない場面が二度ほどあった。インディーズゲームなのでご愛敬といったところか。また、思わせぶりな描写がかなり強引にまとめられた本筋そのものは、少々難があるようにも感じられた。

そういった欠点を補ってあまるほど、練られた作品であった。まだリクガメにも遭遇できていないので、クリア後にアンロックされた自由に歩き回れるモードで探索などしてみたい。


ネットフリックスにっき

高速バスで遠出をする機会があり、車中にて主にスマートフォンでNetflix作品を何本か観賞し終えたので感想を述べる。なお、ネタバレには一切配慮しない。


『アナイアレイション -全滅領域-』

『THE OA』の興奮が醒めず、悶々としてしまったがまだまだ高速バスはたっぷり2時間は目的地に到着しない。似たようなSFっぽさとかなんかこう不安、ミステリアスな作品はないものかと検索して辿り着いたのが本作だった。

世代的に好みドンピシャでもあるナタリー・ポートマン(相変わらず化物じみた美人だ)が主演しており、なんとなくモンスターパニックものなのかな、でもなんだか不穏な雰囲気を感じる…といったところで期待して観賞を始めた。(※余談ではあるが、タイトルが聴き慣れない英単語すぎて全然スッと入ってこなかった。似たようなタイトルうろおぼえ映画に『インフェナル・アフェア』があるが、今書いてみてもこれが正確かどうかわからない。いんへあふあへあ、みたいな音だけで覚えるしかなく、こういうの、たまに困る)

冒頭、ナタリー・ポートマン演じるレナ博士が、何やら無菌室で取り調べを受けている。防護服を着た男に尋問されるが、呆けたように応じるだけのレナ。やがて静かに自身の任務とその顛末について語り始める――。

「何かが起こった」ことは明確で、先に観ていた『THE OA』にダブる「語り系」の手法なのだなと思った。Netflix界隈で流行っているのだろうか。

何やら超常的な現象が起こっているらしい隔離されたエリアに調査派遣されたレナたち一行が遭遇する諸々を、モンスターもの・ホラーもの・サスペンスものの手触りを駆使して描いていく。個人的にはあまり得意でないジャンル(こわい)ではあったが、結局のところ調査の結果に何を見つけようとしているのか、といったところが不明瞭なまま進行し、その「謎」が大きいため、そこそこのグロ描写もなんとか耐えられた。

自分は自分なのか、という言及がなされているのだが、そのサスペンス要素が恐怖を効果的に描くためだけではなかった点がたいへん好ましかった。往年のミステリー系にありがちなテーマとして安易に消費することなく、あくまでも哲学的な命題として、その疑問へじっくり向き合った作品だと感じた。

特に、中盤以降、自らある種の「死」を選ぶ隊員の一人(名前を失念した)のシーンが興味深かった。謎のエリアについては、おそらく宇宙的な何かの存在が、地球の生命を変容・進化させている場所、というように受け取れる。そこに「悪意」などなく、もしかしたら「目的」もないのかもしれない。本作は、広大な哲学の地平から「進化」「変化」を軸にして、根源的には生命ってそういうもんじゃない? あなたはどうして、あなたとして生きているの? と問いかけてくる。

変化を受け入れる、という選択肢を登場キャラクター能動的に選ばせることで、単なるモンスターものとは異なる質感になっていると感じた。ともすれば「諦め」のようにも感じられる彼女の行動だが、選び取ることはあくまでも自意識によるものだ。「人間」として選ぶこと、その様々な行動によって「人生」を生きているのだ。

生命や自然という広い視点から考えると、そういった人間ならではの部分が、いかに薄い刃の上を渡るような危ういものであるかに気付かされる。SF的な観点だけでなくとヨーロッパあたりのミニシアター映画のようなヒネった展開で、最後まで楽しめた。

ただ、やりたかったのはよくわかるのだが、まあまあグロいシーンが多く、ちょっとなあとなった。

ネットフリックスにっき

高速バスで遠出をする機会があり、車中にて主にスマートフォンでNetflix作品を何本か観賞し終えたので感想を述べる。なお、ネタバレには一切配慮しない。


『THE OA』

アニメ体力がダダ下がりし新作アニメの「とりあえず一話」さえもしんどくなってきている一方、海外ドラマの面白さに改めて気付き、ぶっ続けで観賞できるようになった。『ゲーム・オブ・スローンズ』など別格に面白い超大作でなくとも「これは観られるかもしれない」という観賞に至る最低限のモチベーションで再生ボタンを押せるようになってきたのだ。

さすがにシーズン数がいくつもあるものは躊躇するが、1〜2シーズンであれば程よい時間感覚で観賞できるはず、ということで選んだのが本作だ。

なにしろシーズン1しかない。そのうえ結末には賛否両論、SFなのかオカルトなのかサスペンスなのか、といったジャンルすらもボヤッとしており、キービジュアルにある主演女性の薄幸そうでミステリアスな雰囲気も良く「これは観られるかもしれない」となった。

かくして観賞を始めた。「7年間失踪していた女性が見つかった」「盲目だったのに目が見えるようになっている」など、冒頭からミステリーをたたみ掛けてものすごい掴んでくる。おかげで冒頭からワクワクできた。

主人公・プレーリーが、7年間の失踪を経て街に戻ってくる。盲目だったが目が見えるようになっており、自身を「OA」と呼ぶようになっている。心配する家族やFBIなどには何も語らない。近所に住む多種多様な5人を空き家に集め、そこでようやく失踪中に何が起こったのか、自らの出生まで遡って過去を語り始める。

ロシア生まれであることや視力を失った経緯のほか、生き別れとなった父を探し家出している間にマッドサイエンティストに拉致され、ガラスで仕切られた地下室に監禁されてしまっていたのだということがゆっくりと明かされる。
そうやって語られる過去の話が、ミステリー置きっぱなしでゆるゆると進むため中盤「大丈夫かな」と少し心配になった。OAに集められ半信半疑で彼女の話を聞く5人の仲間?たちのそれぞれエピソードも、どういう意図で差し挟まれているのかいまいちわからない。

観賞体力の出どころとして「目的」や「謎」は重要な要素だが、本作ではマッドサイエンティストの地下室から仲間たちと脱出するという目的は示されるものの、実際に脱出できたからOAは現在ここにいて過去を話しているので、脱出できるかできないかではなく、「どうして脱出できたのか」「現在彼女は何をしようとしているのか」といった謎がひとつ上のレイヤーに横たわっているということになる。その謎の解明に必要なのか不必要なのか判然としないシーンが多いと感じると一気にしんどくなってきてしまい、なんだかドラマの造りに揺さぶられるようにしながら観た。

あっわかった、となったのは、スコットが第三の動作を授かるくだりだ。
臨死体験の結果、目が見えるようになったOA。ドラマ冒頭からの疑問がひとつ解けて(とはいえそのプロセスは超常的すぎて「お、おう…」という感じなのだが)のち、目が見えることを監禁しているマッドサイエンティストに隠して行動すれば対抗する手だてはもっと思いつきそうなものなのに、OAは臨死体験中に授かった「動作」を再現することにご執心で、なかなかそうはならない。何をやってんのかわからないストレスを一人抱えたスコットは、目が見えるという事実をマッドサイエンティストに話してしまい、動揺した彼のミスで死んでしまう。

死体となった彼に向かってOAは仲間のホーマーと「動作」を繰り返し、蘇生という奇跡を起こす。息を吹き返したスコットからは不審げな表情が消え、OAやホーマーと同様、臨死体験中に「動作」を授かったとニヤリと笑みを浮かべながら伝える。

具体的にどうというわけではないが、ここでこの作品の見方が一通り出そろったと感じた。なるほど何かしらの不可思議な力によって奇跡を起こせる世界なのだと解釈した。

どういった作品世界なのかを判断するのに、全8話のうちたっぷり5話ぶん、半分以上を費やしたのだった。シーンひとつひとつの手触りがとても映画的な部分はあったものの、この時点でようやく引き込まれた。それでも全てが繋がったわけではないため、果たしてどうやってこの大風呂敷をたたんでいくのか、といったところに集中して楽しめるようになった。

しかし終盤、本作はそのドラマとしての予定調和を見事に崩す。

実はOAの話自体が作り話だったのではないか、というとんでもない展開を経て、さらにその上、ドンデン返しにも似た怒涛のクライマックスに「やられた」となった。

臨死とか天使とかいうワードが出てくるので完全に油断していた。もちろん全ての謎が解けたわけではないのだが、ずぞぞぞ、と麺をすするように一気に納得感が押し寄せる心地良さがあった。

描かれていたのは、自分と自分以外の存在に対する信頼と信用だった。不可思議な力そのものの話ではなく、人々同士で影響を与え合うことで何を成すのかということだった。ともすれば宗教的ではあるが、様々な宗教観がミックスされていて、単に絶対の存在に何かを捧げるということではなく、現実的な「動作」を通じてよりプリミティブに「生死」を捉えようという意気込みを感じ取れた。しかし、ずぞぞぞと勢いよくすすった麺が喉につかえてむせるようなところがないわけではない。喉ごしを味わうほどには理解が至らなかった。

それなりにきれいに終わってしまったが、まだまだ不明瞭な点は多くそのへんどうするのかと思って調べると、2017年にシーズン2の制作が決定したという記事が見つかり、さらに今年の1月末には主演・製作のブリット・マーリングのインスタグラムで制作自体は終了している?ことが明かされている(英語なのでどこまで合っているのか不安はあるが)。

蛇足になってしまうような気はするものの、続編として何を描くのかには興味があるので、静かに待ちたい。

えいがアニメにっき

映画などを観賞したので感想を述べる。

『ボヘミアン・ラプソディ』
あの、クイーンのフレディ・マーキュリーの伝記映画であるということで気になっていた作品。クイーン自体に思い入れは特にないが、思い入れがないにも関わらず、無意識的に、ある程度の楽曲を知ってしまっているという事実は無視できないと常々思っていた。幼い頃から耳にしていたのであろう楽曲の数々がどのようにして、またどういう人物から生まれたのかという興味と、それらがドラマとしてどう構成されているのかといった点を楽しみに映画館に足を運んだ。
エピソードをぶつ切りにされているような独特のテンポ感は多少退屈に感じる場面もあったものの、差し挟まれる楽曲の力によってぎりぎりのところで飽きさせない。宣伝等でも声高に叫ばれているので逆に懐疑的だった「後半21分」についても、再現度が高くライブシーンとして魅力的で、全体的にいろんな意味でしっかり楽しめた。特にアバンの、フレディがベッドから起き上がり、家を出て自身の車でライブ会場に到着するくだり。カメラワークの力によるものか、何ともいえないライブ前の興奮に満ちていて、そこだけでなぜか泣きそうになった。
各々のクイーンへの思い入れや音楽的素養とは関係なく楽しめたのかどうかが気になるところではあるが、概ね好きなタイプの映画だった。


『アリー/スター誕生』
「また何この、何?」と言いたくなるような邦題に、観てもいないのに脊髄反射的に前評判を覆したくなっていた作品。我慢して観た。そもそも映画史に残る名作のリメイク作品であり、そちらの邦題が「スタア誕生」であったために、このようにせざるを得なかったのだと納得したのは観賞後だった。知らんかった。
とにかく主演のレディー・ガガの歌が強烈で印象に残った。ブラッドリー・クーパー扮する実力派シンガーのほうは、作品世界の中でなぜそんなに売れているのか今いち判然としなかった。
悲恋・バッドエンドの物語であり、実力派シンガー側にどう感情移入できるか、もしくはできないかで、かなり違った感想になるだろうと思った。自分としては、彼女から注がれる愛に応えられない、という彼のもどかしさに同調できてしまったので、とても切なく辛くなった。彼女は見返りを求めて愛を注いでいたわけではない、それこそが愛である、ということにさえ気づくことができれば彼もあのような決断には至らなかっただろうし、また彼の決断は非難されて然るべきだとも思う。
しかし、では彼自身以外の誰が彼を救えたのだろうか、と思ってしまった。自身への甘えやナルシシズムが彼を殺したのだとも見えるが、彼を救い出すのもまた「自己肯定」という名の、ある種のナルシシズムでなければいけなかったのではないだろうか。観賞後にはそういったことを考え、悶々とした。
また、本作を既に海外で観ていたという同行者が、早い段階から思い出し泣きをしていたため、そのすすり泣きが聞こえるタイミングによってどういった展開になるのかがわかってしまい残念だった。


『東京マグニチュード8.0』
以前から観賞すべきだと思っていたものの、いつの間にか10年ほど経過してしまった。家族についてなどを考え直すタイミングであり、思い出して帰省中の新幹線の中で一気に観賞した。
序盤から中盤にかけて、主人公・未来と弟の悠貴のやりとり(主に未来の発言)など、反抗期ならではの理不尽な苛立ちが際立ってしまい、多少苦痛に感じる部分があった。とはいえ極限状態でのことではあるし、致し方ないだろうと納得しながら観賞を続けた。真理というバランサーがいなければ観賞体力がもたなかった。
中盤〜終盤は、伏線とミスリードに翻弄されながらも展開としては絶妙であり、新幹線の車内でありながら涙ぐんでしまう場面もあった。生死の境での「家族に会いたい」という思いは根源的かつ普遍的なテーマではあるが、なればこそ手垢だらけの古臭いもののようにも思える。しかし物語上の情報提供のバランス、取捨選択の巧みさが、そういったテーマをさらに骨太にしている。10年前の作品とは思えない。名作に限りなく近い佳作。

にっき

朝起き。週明けなのに何もできない予感に苛まれ、無と化す。会社に連絡も入れずベッドの上で過ごす。
さすがに上司から連絡が入り、メールを返す。ようやく起き出して奇声を上げながらシャワーを浴びる。髭を剃る。
近所の銀行へ。溜まりに溜まった1年分を記帳する。通帳も繰り越し更新する。ぱらぱらとめくり、金の流れをじっとりと眺める。
向かいのチェーンコーヒー屋へ。遅れている課題のシナリオを書く。年上の友人が来訪、おう、と驚いて軽く挨拶したのち連れと打ち合わせを始めたので執筆を続ける。
書き終えたので移動。定期圏内の駅でぼんやりと降車し、再びチェーンコーヒー屋へ。スマートフォンで『ベターコールソウル』シーズン4の続きを観賞。ようやく『ブレイキング・バッド』のバイオレンスな世界観へ続く道筋が示された。続きもゆっくり観たい。
再び移動し、JRターミナル駅で連れと合流。近くの沖縄料理屋で晩飯を食べる。移動して数年前に結婚パーティーで使った地下のカフェへ。コーヒーを飲みながら少し話したのち、互いに読書をする。
映画館へ移動。バンドサポートをしている友人ミュージシャンが出演している映画『デッドバケーション』を観賞。主演女優の瑞々しさが余すところなく画面に映し出され美しい。友人ミュージシャンとの会話のやりとりが軽妙かつ心地よく、もう少し眺めていたかった。
続けて『普通は走り出す』も観賞。昔に観たジャームッシュの映画のような質感。今いち掴みづらい外国映画を観ているような不思議な感覚で観た。クリエイターの自意識の物語ではあるが、重たくならず喜劇として楽しめる作品だった。楽曲の世界観とも合致していたという印象。
観終えて電車に乗り直帰。シャワーを浴び、ハイボールを少し飲む。

アニメにっき

「フリクリ オルタナ」を観賞したので感想を述べる。


前作である全6巻のOVAシリーズ「フリクリ」がアニメ作品の中で常に五本の指に入るほど大好きであるため、逆に過度な期待を持たずに観た。

前作は大学生時代に観賞して衝撃を受けた。物語やシーンの緩急、すっとぼけたキャラクターによるセリフのやりとり、ピロウズの楽曲やとにかく気持ちよく動くアニメーション作画など、非常に痛快な作品だった。「エヴァ」以降の2000年前後の雰囲気――「サブカル」が今よりもっと直球に「カッコいい」とされていた当時の感覚を洒脱に乗りこなし、頭ひとつ抜けている印象があった。「エヴァ」に悩まされた世代にとって「フリクリ」のこの感覚こそが肝要なのだ、といった気付きもあったと思う。ごく個人的な感覚だろうが「励まし」にも近い何かを、この作品から感じ取っていた。

あれから十数年を経ての続編である。時代は変わり、あらゆる物事が個人単位にまで細分化した結果、常に誰か・何かと競っているような、競わなければならないような不安を下敷きに、社会が成立しているように感じるようになった。あの頃の不安はもっと漠然としたもので、だからこそ、どこか享楽的でいられたし、ハル子の発言を心地良く「励まし」と捉えることもできた。

今ではもう、仕事も家族もお金も、しっかり自分に関わっていることを知ってしまった。世界の在り様がわかってしまった。家族の健康を案じ、税金に腹を立て、保険を選び、それでもなんとか競い抜かなければならない。漠然とした不安を払拭するのではなく、漠然とした幸福を手に入れるため、とにかく動いて、嘘でも前向きに、とにかく生きなければならない――。

「フリクリ オルタナ」の主人公・河本カナことカナブンは「変わりたくない」という感覚・願望を抱いている。誰かが楽しいと私も楽しい、誰かが楽しいこの今をこそ大事にしたいという思いを持ったキャラクターだ。前作で言うナオ太の立ち位置ではあるが、彼ほどの明確なコンプレックスもなく、掴みどころは少ない(ナオ太同様、ハル子によって頭から様々なものが出てくるようになってしまう点はさすがに主人公ではあるが)。あくまでも普通にモヤモヤしているだけの女子高生であり、別に使えるからいいじゃん、とばかりに画面がバキバキのスマートフォンを持ち続ける17歳として描かれる。

この点のみを抜き出すと、なるほど最近の若者っぽさがあるなと思う。観察や状況把握には優れているものの、こと自分のことになるとそれらの情報を適用できないという幼さ。自意識の巨大さを情報の少なさから持て余し気味だった世代の(自分のような)人間から見ると、本作の17歳たちはどうしても控えめに映る。

17歳といえば、前作に登場したマミ美を連想せざるを得ないが、同じ17歳なのに、マミ美が持っていた孤独やトラウマはカナブンのどこにも見当たらない。バイトもするし少し良い感じの男子もいるし、友人関係もバカ楽しい。タバコも吸わず、仲間でつるみ放課後は部室に集ってジェンガで遊ぶ。

マミ美はそんな学生生活を送っていない、変化・変革への願望が大きいキャラクターだった(そういえば放火魔まがいのこともやっていたし、今思えば随分と「アブナい」キャラというかガチメンヘラに相当するキャラだったのだなあと今さらのように思う)。

大人・成長を意識しながらも、自分の立場や性質からどうしてもうまくいかないというそんなマミ美のストレスは、カナブンの同級生で幼馴染み・ペッツが引き継いでいた。ストレスを維持したままペッツが旅立ってしまうことになり、それを受け入れられないカナブンによって作品終盤、クライマックスが引き起こされる。変革・変化を断固として拒否したカナブンは、脳内を経由して開いたN.O(エヌオー)のチャンネルを通じ、世界ごとまるまる複製してしまう。

このオチ自体はなんとなく納得できたものの、ある意味ではバッドエンドであろうと思う。世界五分前仮説を彷彿とさせつつ閉じるこの物語は、少なくとも大団円とは言い難い。目に見える成長も関係の再接続もない。ペッツに振り分けられたマミ美の「要素」は、結局それだけで終わってしまい、カナブンは自身のモノローグの通り、昨日の寄せ集めのような明日を生きる。

大きすぎる変化は個人では把握できず、気付かないまま日々は続いていく。

そういうものかもしれない、と思いながらもどうしても釈然としない。モヤモヤとしたものを残したまま映画館を後にするしかなかった。

もちろんキーパーソンであるハル子はしっかりハル子として登場していたものの、前作とは異なり、残念ながら彼女の存在感をもってしても「励まし」とは受け取れなかった。タイトルが示す通り、あくまでも「フリクリ」の「オルタナ」であることは前提であり、リブートでもリメイクでもない別の選択を観せてくれたことは間違いない。その点への満足度は非常に高かっただけに、全体に非常にもったいない印象になってしまった。

問題は、エピソード6本を連続して観賞するという手法そのものであるような気がする。

前作も最初の観賞後、結局のところよくわからなかった。よくわからなかったので、繰り返して観賞した。そのうち独特のリズムやボーイミーツガールの甘酸っぱさが心地良さに変化し、観賞自体が快感に変わっていった。そういった変遷を経て作品の評価が上がっていったのは、映画ではなく、OVAというメディアだったからではないか。

恐らく制作・興行側もその理解があったのだろう。映画館の売店ではすでに本編Blu-ray・DVDが販売されていた。海外での放映が先だったので、タイミング的なものなのかもしれないが、公開の終了を待たずして販売することにゴーサインが出たことには、一定、上記のような、自分のようなファンがいることを見越してのことであるはずだ。

「繰り返す」こと、反復して観賞することで筋肉に骨格に脳髄に染みてきたものが自分にとっての「フリクリ」なのだろう。ただ一回、映画館でだーっと観ただけで、良いも悪いもない。まさに「NEVER KNOWS BEST」だ。良いも悪いも何も、ベストなものなんて誰も知らない。マミ美のタバコを思い出す。

橋の上で気だるげにタバコをくゆらせるマミ美。彼女が吸うヨレた一本に手書きで記された英文。本作でも仲間たちと過ごす部室で、カナブンが何げなく手に取ったジェンガの一つに同じ英文が書かれている。タバコは嗜好品で、ジェンガは玩具だ。

コンプレックスを抱えて背伸びをしながらも大人にはなり切れないマミ美、形にならないモヤモヤがありながら今のままがいいと幼い子供のようにエゴを貫き通すカナブン。同じ17歳でもほとんど正反対だ。それは主人公やヒロインといったキャラクターの立ち位置だけの話ではあるまい。

制作側の変容と、観賞した自分の成長や老化と。時間を経たことにより自然とカナブンの背中に乗っかった溢れるほどの情報量。期待と呪いが入り混じったそれらをかなぐり捨てるような彼女の決断は、今のところ、個人的には非常に悩ましい。

今ひとつ突き抜けられなかった印象だが、観賞の回数で変化することは多いに有り得る。買えばよかったとこれを書きながら少し後悔しているので、近々そのためだけに映画館に足を運ぶかもしれない。いやしかしどうせ次作「フリクリ プログレ」と二作品まとまったやつが出るだろうし、とにかく次を待とうと思う。「フリクリ プログレ」は今月末に公開される。

えいがにっき

映画を鑑賞したのでまとめて感想を述べる。


「未来のミライ」
前評判を聞いてしまっていたため期待せずに観た。細田守監督作は「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」と、近作になるにつれてどこか意図的に外されているような質感があるが、本作も同様だった。何を観ているのかわからなくなるようなワクワクした感覚は、こと映画作品においてとても大事な要素であるものの、それはやはり観客に立ち位置をいったん与えるという操作あってこそなのだろうと思った。終盤の駅のシーンで、父母の名前は思い出せないが妹の名前は覚えていることで「兄」としての自我・自意識を獲得するくだりは好ましかった。そのほか、自らの成長は究極的には自分だけでは俯瞰できないのだなという、独身には少々キツめの気付きを得るなどした。


「ジュラシック・ワールド/炎の王国」
前作は自宅で観賞し、なかなか面白かったので最新作は劇場で観た。島に恐竜を捕まえに行く→命からがら島から逃げ出す→捕まえた恐竜が本土で暴走する、という展開はほとんど二作目の「ロストワールド」ではないかなどとかなり大味な印象は受けたものの、リブートの雰囲気は端々から感じられた。最終盤、イアン・マルコム博士の「ようこそ、ジュラシックワールドへ」という皮肉まじりの台詞によって物語世界が歪に広がってゆくカタルシスを得られ、非常に心地よかった。ある種のバッドエンドでもあり、次回作がどのような展開を見せるのか期待したい。


「デッドプール2」
前作が思いのほかシリアスな展開が多く、なおかつMCUなどの他マーベル作品と比べて地味な印象であったため、二作目ではどうなるのか期待しながら観た。恋人の死やケーブルの登場、他ミュータントの存在などシナリオ内の情報量は増えたもののしっかりとブラックコメディであり、メタ的にも笑えるポイントが多々あった。のめり込むほどではないにしろ娯楽大作として大いに楽しめた。特に終盤のポストクレジットで『グリーン・ランタン』の脚本を手に「ついに大作に出られるぞ」などと期待に心を弾ませ笑顔を浮かべるライアン・レイノルズのシーンが物悲しくも笑えた。


「レディ・プレイヤー1」
VRゲームの世界と現実世界がどうリンクしている、してゆくのかが物語の肝になっているのであろうなと思って観たものの、先人へのリスペクトとクリエイターへの賛歌が主なテーマであり、少し意外だった。ともすれば世代交代について説教臭くなりそうな物語を、ボーイ・ミーツ・ガールのみずみずしさとVR世界の鮮やかな描写で痛快なエンターテインメント作品に押し上げている。継承されるべきなのは作品や作者の思想ではなく、作品に向き合い真剣に楽しむという行為そのものなのだろうと思った。


「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」
大好きなMCU作品の最新作。二部作の前半部分であるというアナウンスがあったので、どこかで負け戦になるのだろうという予想はあったが、ラスボスであるところのサノスの視点を盛り込むことでベタな展開が緩和されていた。MCUヒーローとサノスの直接対決のシーンはそこに至るまでの合戦シーンと比べてどうしても見劣りするところ、サノスの人間臭さや弱みを提示することで戦闘バランスを演出できており「もしかしたら勝てるかも」などと楽しめた。そんなことはなかった。次回作、関連作も楽しみに待ちたい。


「グレイテスト・ショーマン」
ウルヴァリンが歌って踊る映画だと思って観賞を始めたものの序盤のテーマ曲が力強く、気持ちよく持って行かれた。ミュージカル映画としてとにかく音楽がとても良かったという印象。マイノリティの叛逆・抵抗といった物語も王道で、全体的に好感が持てた。しかし「大人」になれない主人公の無邪気さが物語が進むにつれ次第に鼻につくようになり、ほかならぬ自分に余裕がなくなっているのではないかと、妙な視点で最近の人生を顧みるに至った。


「オリエント急行殺人事件」
原作は未読だがアガサ・クリスティー作品に多少の知見はあったことが災いし「実はポアロが真犯人」というオチの作品だと勘違いしたまま観た。舞台がほぼ列車内に限定されてはいるが、画の構図などダイナミックで迫力があった。クローズドな群像劇であり好みの質感ではあるが、基本はポアロの調査、容疑者との会話のやりとりで物語が進行してゆくため、少しダレた部分もあった。オチの演出・表現は美しく整っていた。また今回久しぶりにレンタル店で映像作品を借りるという行為を経て観賞したが、明日までに観ないといけないというプレッシャーが重かった。


「キングコング:髑髏島の巨神」
配信サービスで観賞。巨大生物の描写という点ではこれまで観賞した中で最も好ましかった。そのスケール感もあってより「神」としての雰囲気が強く、懸念していたゴジラとの対決にも期待が持てる仕上がりだった。特に傷を負ったコングが湖に現れ、大きな波が登場人物の足元にざざざと届く一連のシーンが素晴らしかった。巨大なものを巨大なままに描いている点だけでなく、内容もアドベンチャーもの、モンスターパニックものとしてわくわくと楽しく観られた。次回作も期待したい。


「夜は短し歩けよ乙女」
モチベーションは低かったものの、今なら観られるような気がして観た。酒豪で読書好きの天然乙女とお近づきになりたい先輩が織りなす青春ロードムービー。湯浅監督をはじめ「四畳半神話大系」の制作陣による長編映画であり、モラトリアム、ボーイミーツガール、ダイナミックな展開など、自分の好きなものが全部入りの作品であるはずだが、観賞しながら若干のしんどさすら感じてしまいうまくハマらなかった。もはやこういった青春ものは、尖っていようといまいと普通に食傷気味ということなのか。あまり好きな言い方ではないが、もっと若いうちに観るべき作品なのかもしれない。

クレイトスにっき

最近、通勤にはリュックサックを使っている。

以前は自転車通勤をしていたのでメッセンジャーバッグをよく使っていたが、斜め掛けであることが災いしたらしく肩や腰を痛めてしまった。加えて今は会社から支給されているPCが15インチと少々大きくそれなりに重量もあり、持ち運びのことを考えて、最近はリュックサック一択になっている。

アウトドアブランド「MEI」のリュックで、もう購入して数年経つものだ。二泊程度の小旅行にちょうど良いサイズで、バンドのライブで遠征する際の必需品だった。センターに大きく縦にジッパーがついており、荷物の出し入れが非常に便利でとても気に入っている。

さらに特筆すべきは左右に大き目のポケットがついている点だ。リュックを背負ったまま、後ろ手に飲み掛けのペットボトルをずぼっと出し入れするなどして重宝している。

ノールックでおもむろに背中側に手を伸ばし、ペットボトルを取り出す、自宅の鍵を取り出す、スマートフォンを取り出す。そのたびに、近頃はこう思うようになった。

「なんか今、クレイトスっぽかったな」と。


前置きが長くなったが、PS4ソフト『ゴッド・オブ・ウォー』を一通りプレイしたので感想を述べる。

『ゴッド・オブ・ウォー』はPS2時代から続くアクションゲームのシリーズだ。『掘戮泙任離淵鵐丱螢鵐哀織ぅ肇襪里曚、PSPでの外伝、多人数プレイに主眼を置いたスピンオフなど、これまでにいくつかの作品がリリースされている。それらのほとんどはプレイ済みだ。

元々『人喰いの大鷲トリコ』をプレイするためだけに購入したPS4だ。他に個人的なキラーコンテンツはなく、ほぼhuluやNetflixを鑑賞するための黒い箱に成り下がっていた。そのため、完結したはずの『ゴッド・オブ・ウォー』の新作がリリースされるとの報を聞いた時には小躍りして喜んだ。

ソフトの発売日は大阪出張の当日だった。空き時間に梅田のヨドバシカメラで購入してのち三カ月、ゆっくりと舐めるように遊び、先日ようやく(一応の)クリアを果たした。

本作はオープンワールドゲームの要素があるため、ゲーム世界には様々なサブクエスト・隠し要素が点在している。ひとつひとつのクエストが非常に手が込んでいるため全ては把握できておらず、メインクエストのストーリーを終えた時点では「一応の」クリアにしかならない。たぶん。

ストーリーは、単純に言えば父と子の成長譚だ。亡くなった妻の「遺灰を世界で最も高い場所から撒いてほしい」という遺言に従い、主人公・クレイトスが実子のアトレウスと共に北欧神話の世界を舞台に冒険を繰り広げる。はじめはギクシャクしていた親子の関係性が冒険を通じて強固なものになってゆく、という筋書きがゲームそのものの展開に密接に関わるようデザインされていて美しい。アトレウスの弓矢によるスタン効果や、一時的に敵の動きを封じるコンビ技などが終盤になるにつれ強力になってゆくので、かなり助けられた。

ナンバリングタイトルでのアクションゲーム然としたステージ構成とは異なり、クレイトスの後方からのTPS視点になっているからか、はじめはプレイ感にうまく馴染めず難しさもあった。複数で襲われると状況の把握ができないため、ボコボコにやられて殺される場面も多々あり、死んではリトライを繰り返した。何より今回は難易度ノーマルのザコ敵でもなかなか固い。ヒットアンドアウェイを繰り返すしか突破口がなく、少しイライラさせられた。

さらに今回は、これまでの伸縮自在な鎖のついたブレイズ・オブ・カオスではなく、妻から譲り受けたというリヴァイアサンなる斧がメイン武器となっている。最初はブレイズ・オブ・カオスの、双剣を鎖でギュンっと伸ばしてぶん回す感覚が懐かしく、少し残念ではあった。しかし投げてもボタンひとつで手元に戻ってくるというリヴァイアサンのアクションは「マイティ・ソー」のハンマーを彷彿とさせ、敵がいなくともやたらと投げたり戻したりするうち、すっかり楽しめるようになった(しかしエイムが苦手すぎて、制限時間内に三つの的を壊すミッションは苦戦した)。

移動中やストーリームービー中などは、その斧を肩に下げたフックに後ろ手に引っ掛ける。メインストーリー中盤に世界観の説明役として仲間に加わる、しゃべる物知り生首ジジイ・ミーミル(なんともゴッドオブウォーっぽいセンスのデザインだ)も、腰のあたりのフックに引っ掛ける。そして終盤、満を持して使用可能になるブレイズ・オブ・カオスも、前作までと同様にクロスさせて背負う。

それらの武器や生首などを、ノールックで後ろ手に掴み、装備する(十字ボタンの左右で、任意に出したり仕舞ったりできる)。個人的にこの何でもない、収納・装備のアクションが非常に心地良かった。

少し考えてみたが、男子ならば必ずある、鞘からはらりと刀剣を抜いたり戻したりといった行動への憧れによるものではないかと思う。拾った長い棒切れを半ズボンのベルトループに差したり、雨傘を剣に見立ててアバンストラッシュの構えをしたりといった「ごっこ遊び」をリアルな描写が売りのゲーム内で体験できるのが、無意識のうちに嬉しく、アクションの心地よさにつながっているのだろう。

実際の生活でクレイトスと同じような行動をとっているというだけでも、なんだか楽しい。

地下鉄の改札機にICカードを押し付けてホームへ、どしどしと大股で歩く。ICカードを後ろ手に、リュックの右ポケットにしまう。かわって左手で、左ポケットに突っ込んでいたペットボトルを取り出す。フィクションが現実に、生活の片隅に、わくわくする憧れの気持ちをまとって現れる。一連の行動にふと気づいて、ああ、クレイトスみたいだな、と思う。

新作『ゴッド・オブ・ウォー』は、自分にとってそんなゲームだ。一応のクリアを果たしてなお、ムスペルヘイムの試練あたりを舐めるように遊んでいる。ゲーム内ではリヴァイアサンを持ったりしまったりして移動し、現実でもリュックをしょって歩きながら似たようなことをしている。

現実に、日常にはみ出してくる作品は、ある種の名作に違いない。次回作にも期待したい。

にっき


朝起き。少しだらだらして歩いて外出。近所に最近できたというパン屋のイートインスペースで朝昼飯。帰りにたこ焼き屋に寄り、帰って海外ドラマを鑑賞しながら食べる。茶を飲む。飲み物がなくなったのでコンビニへ行く。
戻って準備をし、近所のスポーツジムへ行く。プールが通常より少し混んでいる。ゆっくりと流して泳ぐ。上がってサウナと入浴。近所の薬局で生活必需品など購入。
いったん帰宅し荷物を置いていつもの立ち飲み屋に行く。まだ日のあるうちにビールを飲む。ゆっくりする。スーパーに寄る。
『ゲーム・オブ・スローンズ』シーズン7の一気観に備え、世界観に雰囲気を合わせてポテトや玉ねぎ、鶏モモ肉で炒め物を作る。ビールを飲みながら鑑賞。途中で休憩を挟みながら全7話を観終える。これまでのシーズンとは異なり派手な戦闘シーンが多く、またシーズン1以来の再会シーンもあって同窓会的な面白さがあった。特にドラゴンが戦場で活躍するシーンはファンタジー映画の真骨頂が満を持して出たという興奮に満ちており、感銘を受けた。主要キャラクターがウィンターフェル・ドラゴンストーン・キングズランディングに集結し、いよいよ次回がラストシーズンということで大戦に向け期待感が高まりきったところで終了。すでに朝になっていたが就寝。